1938年台湾生まれ。終戦後、日本に引き揚げてくる。60年、歌手になるべく上京、「石井均一座」に入門。82年より、シャンソン歌手深緑夏代に師事、歌手の道に入る。86年、横浜に移り、シャンソンライブハウス「さろん童安寺」(現シャノアール)を開店。90年、淡谷のり子とのジョイントコンサートの開催、ビクターよりCDアルバム「元次郎こころのシャンソン」「元次郎リサイタル ’88」などを発表。93年、パリ音楽祭出演。メリーさんとの出会いは、メリーさんが「元次郎リサイタル」を観にいったことから始まった。その後、2人は年の離れた親友として、交流を続けていくことになる。2004年逝去。







中村監督に「横浜ローザ」の舞台のラストシーンから街に抜け出した想いで伊勢佐木町を無言で歩いてくれと頼まれた。頭の中で舞台をたぐりよせ“心”という文字の中に消えてゆく瞬間までを想い路上に立った。白ぬりに白いドレス、腰をまげ大きなバックを引きながら進む姿に人々は「メリーちゃん!」と声をかけ立ち止まり、ささやき、語り合い、いつの間にか街が劇場になっていた。この街は決してメリーさんや元次郎さんの事を忘れはしない。




五大路子

桐朋学園演劇科を卒業後、早稲田小劇場を経て新国劇へ。NHK朝のテレビ小説「いちばん星」で主役デビュー。退団後は多数のテレビ、舞台に出演。99年、横浜夢座を旗揚げして、横浜発信の新舞台を、毎年上演している。メリーさんとの出会いによって生まれた一人芝居「横浜ローザ」で横浜文化賞奨励賞を受賞、毎年8月15日には、赤レンガ倉庫で連続上演している。








1932年新潟生まれ。脚本家、劇作家。NHKの大河ドラマ「天と地と」「春の坂道」や「宮本武蔵」、朝のテレビ小説「風見鶏」などを執筆。映画脚本として「彫る 棟方志功の世界」「悲しきヒットマン」「極道戦争?武闘派」。晩年は活動の場を横浜に移し、ハマのメリーさんを題材とした「横浜ローザ」の作?演出を手掛けた。2004年逝去。




横浜生まれ。クラブ歌手をしていた22歳の時に、横浜?福富町にパブ『ノンノン』を開く。店のお客さん相手の人生相談が発展して、昭和49年に史上初の「テレフォンセックス」を発明し、話題となる。その後、日本テレビ『11PM』 の風俗レポーター?タレントとして活躍。歌手としてレコード『ささやき』『真夜中の詩』『官能小説』をリリース、ビデオ作品として「テレフォンSEX」「清水節子のラブジュース」などがある。その他、官能小説「媚匂の花」、「青春ブランドサイド」など文筆活動もおこなっている。94年には、メリーさんのドキュメンタリーを制作するが、撮影1ヶ月で、頓挫する(そのフィルムはいまだに不明)。現在もテレフォンクラブ運営、各メディアなどで多岐にわたって活躍中。




1921年生まれ。戦中は満州映画協会を経て、特攻要員の訓練などの写真撮影などをする。終戦後、夕刊紙、女性誌などを経て、男性誌の風俗記者に。以来、赤線の女給、ストリッパー、トルコ嬢など、精力的な取材をおこなう。著書に「トルコロジー」「泡の天使たち」「戦後性風俗体系」「昭和色街美人帖」。2004年逝去




1931年滋賀県生まれ。57年、文藝春秋オール新人杯に入選し、作家活動に入る。「花と蛇」「夕顔夫人」などで、嗜虐的官能小説の第一人者となる。近著は「真剣師 小池重明」「美少年」がある。昨年には、「紅姉妹」で映画監督としても活動している。以前は横浜に住んでおり、メリーさんはよく顔をあわせる身近な存在でもあった。







その人がいたのは、歓楽街にあるビルの一隅だった。パイプ椅子を二つ並べ、上体を深く折り曲げた姿勢で眠っていた。人は普通、体を伸ばして眠る。しかし野生の獣は、自分の体で自分を隠そうとするかのように丸まって眠る。メリーさんと呼ばれるその人は、大都会に棲む小さな獣だった。頭から足の先まで真っ白だったから、置き去られた大きな卵のようにも見えた。 それが十年くらい前。私が横浜という街に馴染み始めた頃のことである。見たのはその一度だけ。ほどなく彼女は横浜から姿を消した。けれども見てしまったからには気になる。以来、私はだれかれとなくメリーさんのことを訊いて回った。 「メリーさん?もちろん知っているよ」。 横浜の中心あたりにいる人は、みんなそう答える。終戦後、進駐軍相手に街娼をしていた、老婆と呼ばれる歳になってからも、白塗り、白い衣装で街に立ち続けているーーというあたりまでは誰の話も同じ。が、それから先は人によって言うことが違ってくる。「一代目がいて、現メリーさんは二代目」「実はオカマだ」「豪邸に住んでいる」「病気で脳をやられている」

メリーさんは、どんなに親切にされようと、自分のことをほとんど語らなかった。だから噂が独り歩きし、姿を消したあとは謎めいた都市伝説だけが残った。 そんな彼女を、若い中村監督が追った。よくぞここまでやれたと感心せずにはいられないほど、時間と誠意をかけて映像にした。真摯に彼女の面倒をみたゲイのシャンソン歌手、元次郎さんと組み合わせることによって、横浜の貴重な戦後史、さらには胸を揺さぶる人間ドラマにまで昇華させた。横浜にはおそらく、何人ものメリーさんや元次郎さんがいたことだろう。それを思う時、私はいっそうこの街がいとおしくなる。





山崎洋子

1947年京都府生まれ。コピーライター、児童読物、テレビ脚本を経て、小説「花園の迷宮」で第三十二回江戸川乱歩賞を受賞。「ヨコハマB級ラビリンス」「ヴィーナス?ゴールド」など著書多数。舞台の脚本?演出も手掛ける。99年に発表したノンフィション「天使はブルースを唄う」はハマのメリーさんとGSグループ?ゴールデンカップスを軸とした横浜戦後史。








1938年生まれ。舞踏家。59年、土方巽の「禁色」に少年役で出演。以後、土方巽DANCE EXPERIENCEの会など暗黒舞踏派公演のほか、及川廣信にクラシックバレエ、パントマイムを学び、バレエ東京アルトー館公演に出演。その他、父大野一雄の公演に参加するなど、海外でも活躍している。まだ米兵が横浜界隈にいた頃、妻がシルクセンターでドラッグストアを経営。メリーさんはお店の常連客だった。




1935年横浜市西区生まれ。10代から映画興行に関わり、04年まで横浜で最も古い劇場「横浜日劇」をはじめ、横浜に6スクリーン、渋谷に1スクリーンを経営する(有)中央興業専務兼、7スクリーンの総支配人であった。横浜黄金町を舞台にした「濱マイクシリーズ」では、企画を務めるほか、主人公の養父役として自ら出演。横浜の映画?映像に関係する事業?催事に多く関わる。1995年横浜文化賞受賞。




1936年横浜真金町遊郭生まれ。23歳で若葉町にバーを開店。25歳で中華街のドンに指名され、野毛キャバレー「チャイナタウン」の支配人になる。若き才能と頭脳、持ち前の度胸は当時の横浜の夜の世界に鳴り響いた。















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